理事長エッセイ

先生の熱意と指導力が安松幼稚園の誇り

平成28年1月1日
理事長 安井俊明
国語教育を大切にする背景
―― 文明論を基に日本語・文化について考える ――

 新年明けまして おめでとうございます。
本年が、皆様にとって、心豊かな年になりますよう念じています。
また日本の子供たちの健やかな成長と共に、日本人としての誇りと自信を取り戻し、日本国の立ち直りを、心から願っています。

 

【I】母国語の大切さ……文明の観点より
 米国の国際政治学者・サミュエル・ハンチントンは、名著「文明の衝突と世界秩序の再創造」の中で、国民国家の視点ではなく文明に着目し、世界秩序を分析しました。
世界の文明圏を 8 に分類し、その一つとして、日本文明を挙げました。
 日本文明以外は、一つの文明の中に複数の国家が含まれています。
日本文明のみが、「一国で成立し 一言語・一民族 でなりたっている」とされています。(注:ハンチントン以外にも、文明による分類がありますが、日本文明が列挙されている場合が多いです。)
 一国で一文明と分類された日本文明ですが、全く外国の影響を受けていなかったわけではありません。
 しかしながら、日本文明が、極めて独自性の高い一国一文明の民族文化であると認知されたのは、私は、永く続いている日本語そのものがその根底にあると、考えています。

日本の歴史を振り返るとき、日本に外国が武力を主として侵攻してきた事例としては、

  • 中世の元寇の役
  • 幕末の英(朝廷側)と仏(幕府側)両国を中心とする植民地化の試み
  • 大東亜戦争(第2次世界大戦)後のアメリカによる日本の占領

の3点が挙げられます。
 その中で、日本の国語(日本語)が廃止されようとした危機が、幕末から明治にかけてと、アメリカの日本統治期間と、2度ありました。(色々な説がありますが、ここでは触れません。大きな流れの記述として、お受け取り下さい。)
しかし我が日本は、幾多の困難を乗り越えて、二千年来の母国語を維持継続してきたのです。私はその理由を次のように考えています。

大陸から伝わった文字(漢字)に飽き足らなかった私達の先人は、漢字からカタカナや平仮名を発明しました。そして話し言葉そのままの順で、文字に書き留める技術を手に入れました。

浄土真宗のお説教(親鸞聖人の口述録「歎異抄」)など、哲学的な内容でも、日本語で簡単に表現することが出来ていました。

鎌倉時代の一所懸命の言葉に由来する、「土地は、耕した者に所有権がある」という考え方は、日本的合理主義につながり、個人というものの自覚が芽生え、人間の思想にリアリズムを与えました。(運慶・快慶の彫刻を思い起こし下さい)

江戸時代の政治体制は米穀経済に基盤を置いていましたが、商業に寛容で、そのしめつけは緩やかでした。中期から後期にかけて商品経済が勃興し、貨幣経済が発展しました。貨幣(商品)経済は、人間を現実的(実証的)にします。品物や労働について、数・量・質について考えるという合理的な面が前面に出てきます。さらには、人間の認識力が鋭くなり、かつ個人の自由への欲求が強くなります。(淡路島出身の高田屋嘉兵衛が商取引によって函館という町を大きくし得たのも、かなり自由な商いが許されていた証でしょう。)
13世紀の鎌倉時代に芽生えた日本的合理主義はより一層すすみ、江戸時代において、日本をより日本たらしめました。
江戸中・後期の商品経済の活発化(早期資本主義)は、社会的にも色々なゆとりを生じました。侍は当然学問をする階級でしたが、生活の必要性から庶民の子弟も初等教育の塾に通いました。この時代の識字率は7、80 % といわれています。

幕末における内輪揉めは、外国の介入を許さずに、自らの手で“維新”する事ができました。

(※理事長エッセイ 25.1.1 新年に想う 日本よ元気を出そう も、是非併せてお読み下さい)

 私は,以上述べてきた数点が、江戸時代の識字率の高さと日本語教養力の高度成熟度につながり、幕末から明治にかけてと、大東亜戦争後 の二つの危機を乗り越え、二千年来の母国語を維持継続できた理由と考えています。
 上田和男さんは、日本の文化力が、なぜ世界中で図抜けているかと問われれば、「人類史を通じて、日本語が唯一、植民化されなかった言語であり、そこに独自の客観的世界観が凝縮されているから」と述べておられます。

 

【Ⅱ】雑誌“致知”からの取材依頼 並びに 安松幼稚園で国語教育を大切にする理由
 “人間力を高める”を謳った雑誌“致知”から、理事長・安井俊明と安松幼稚園に関する取材依頼があり、2015年10月号に、記事が掲載されました。
 内容は、次のようでした。

  • 国語教育の中の一分野である古典(吉田松陰の和文や論語)に触れる事によって、子供の感性・情緒を育みたい。……致知は古典を大切にしています

  • 子供を細かく観察し、それぞれに合った負荷をかける事によって、子供の人間力が磨かれていく。

  • 個性とは、子供のしたいように自由に好き勝手にさせることではない。本当の個性は、基本、言い換えれば 型を身に付けさせることによって生まれる。

  • 子供は真似をする天才ですから、徹底して先生の真似をさせる。そしてその後に、本当の個性が出てくる。いわゆる道を求める際によく言われる 守・破・離 の過程なくして、本物の個性は出てこない。

雑誌発売後、全国各地から問い合わせがあり、11月に、泉佐野市から市長・子ども部部長、八尾市から、教育委員長・教育委員・市会議員など数名がお越しになり、授業を参観頂き、その後に勉強会をもちました。そこで話した、「安松幼稚園で国語教育を大切にする理由」を、次に記してみます。


基本の部分

 幼稚園もしくは小学校の教育活動において、残すべき教科を一つだけ選べと言われた場合、それは疑いもなく国語(言語の領域)であります。
もちろん体や情緒の発達の面から、体育や音楽などの芸術もとても重要ですが、一つだけとなると、明らかに国語が最重要科目となります。私は母国語こそが文化の中核であると思っています。
 お茶の水女子大学の名誉教授であり数学者の藤原正彦さんは「小学校では、一に国語、二に国語、三、四がなくて五に算数、あとは十以下なのである。」とも述べておられます。

それでは、国語の大事な理由を挙げてみましょう。

【理由1】

母国語こそが全ての知的活動の基礎である。読み書きの基礎というばかりでなく、思考そのものと深く関わっている。人間は、言葉(主として母国語)でもって色々な情感を訴えたり考えたりするのである。それ故人間は、自分の持っている語彙以上のことは考えられないのであって、母国語の語彙をきちんと身に付けないと充分な思考すらできなくなる。「ウッソー」「超ムカツク」「ヤバい」などの語彙でもってしか自分の気持ちを表現できない者は、思考においても、その程度でしかない。私達にとって語彙を身につけるとは、多くの場合、漢字について知ることにつながる。
(補:私は以前から、日本の学校教育における「漢字の読み書き同時指導」が日本人の国語力を弱めている大きな原因だと考えています。子供の発達段階を研究すれば、子供にとって漢字の読み(それも画数の多い漢字を含めて)は、とても簡単なことが分かります。漢字の読みを先行させることが、どんなにか日本人の国語力を高めることになるか!!目覚めよ文部科学省と続けたいところですが……)

【理由2】

 人間の実体験は大切であるが、限りがある。国語を用いた読書を通じて、人間としての情緒や道徳(人のあり方)を学ぶ。国語は、誠実、慈愛、公正、勇気、正義、忍耐、礼節、惻隠の情、卑怯を憎む心、もののあわれ、何を美しいと感じるか 等々を学んでいく起点でもある。

【理由3】

 国語こそが民族の生命線である。戦争に負けて国土を占領されても民族は滅びないが、言語を一世代にわたって奪われる(使用禁止にされる)と、民族は滅びる。民族としての情緒、道徳、文化、伝統の中核に、母国語があるからである。


 まさに、前稿【I】母国語の大切さ……文明の観点より で述べたことが基にある。


【Ⅲ】人間に最も大切な資質を一つ挙げろと言われれば それは感性(感受性)
 前項の【Ⅱ】で、安松幼稚園で国語教育を大切にする理由について述べましたが、私は、国語力の高さが、豊かな感性を育む大きな要因の一つであると考えています。
 ある問題が発生したとき、その事柄への反応は、その人が持つ広い意味での感性によって始まります。
 例えば、星野富弘さんの詩を読んで(聞いて)、涙を流している人と、そうでない人がいるとします。(HP 写真館・ビデオ館→文化発表会→平成27年度→星野富弘の世界)そうでない人から「どうして涙を流しているの?」と問われたとします。その詩に触れて感情が揺さぶられない人に、涙がこぼれる理由を100万言費やしたとしても、説明するのは不可能でしょう。別の世界なのです。
 これは、数学や物理などの学問の世界においても、また世の中で起こっている様々な事柄・事象についても、同じことが言えます。どのレベルの問題に、何かを感じて行動に移すか移さないかというのも、その人の感性に引っかかるか引っかからないかで始まるのです。  それ故、安松幼稚園で国語教育を大切にする理由は、子供達の感性を育み豊かにするため、とも言い換えることが出来ます。


【Ⅳ】国語教育の内容 ならびに 型の大切さ
●安松幼稚園における国語教育の内容(教材)

・絵本の読み聞かせ

・子供によるお話作り

・ことわざなどを用いた単文作り

・古典(吉田松陰などの和文や論語)

・俳句 時には和歌

・唱歌、童謡などで格調高い日本語に触れる

・文化発表会における 言語発表や劇の台詞

・日常の授業におけるあらゆる分野での先生やお友達との会話が即国語教育である

 

●基本の徹底と 型の美しさを伝える
 昨今、型という言葉は、「型にはめる」など、あまり良い意味では使われないことが多くなっています。
しかし私は、幼少期・義務教育期・新しく何かを始める時には、きちっとした型を伝えることが大切だと思っています。

朝起きると「お早うございます」
病気で早退のお友達には、
「お大事に」
体の調子の悪い人やお年寄りには「大丈夫ですか。何かお手伝いすることありませんか?」

等々の言葉掛け。これらも人としての一つの型であり、こういう型を身に付けて、人としての軌道に乗っていきます。
 挨拶、歌唱、お箸や鉛筆・絵筆の持ち方、書道、ピアノ、お遊戯、色々な運動
これら全てにおいて、基本があり型があります。
そして型の美しさがあります。型からくる美しさがあります。古典芸能や武道などにおける 守破離 について考える価値は、今の日本にとって充分にあると思っています。
(HP 写真館・ビデオ館→文化発表会→平成27年度→安井の話諸石先生のお話森さんの話 もぜひご覧下さい)


【Ⅴ】保護者の感想も一編 ほか色々
以上をまとめると共に、漢字指導・俳句指導についても、一言触れておきます。

 

一国の文化は その国の国語に帰着する
国語力とは語彙力であり 語彙力は漢字力が培う
●脳に可塑性のある幼児期こそが 漢字吸収最適期である


●安松幼稚園の漢字指導
 赤ちゃんが言葉を覚えていくのと全く同じように漢字を導入しています。赤ちゃんが言葉を解らないからといって大人は話しかけるのを止めないでしょう。それと全く同じで、話し言葉は耳から入る言葉ですが、漢字は目から入る言葉です。私たちは赤ちゃんに言葉を教えたという記憶はなくても赤ちゃんが自然と話し言葉を耳から覚えるのと同じように、子供の目に触れるようにしておくと、漢字を目から覚えてしまうんですよ。
≪漢字はひらがなよりはるかに簡単なのです≫

教材は子どもの発達段階を基に組み立てるという発想に立つとき、俳句は幼児から指導していきたい。情操や知識が広がり、日本人としての情緒・文化を身につけることにつながる。
 学ぶには、それにふさわしい年齢がある。物事は、大きくなってから学ぶと簡単になるというものでは全くないのです。
≪漢字も俳句も、むしろ幼児期から小学校中学年ぐらいまでが楽に楽しく学ぶことができます。≫

国語力と感性は相反するものではなく相乗的に豊かになってくるもの

桜組 角田理恵子

 

 文化発表会、大感動でした。ありがとうございます。
息子が安松幼稚園に在園でき良かったと、心から思えた一日となりました。
 発表会後の理事長先生のお話の中にも、心動かされたお言葉があったので、お手紙を書かせて頂きました。
 国語力のお話の中での 「詩を聞いて感動する感性」と「思考は国語力から」についてのところです。
 私は今まで、「言葉(国語力)と感性・情緒は、相反するもの」と思っていました。
その為、私自身を、言葉優先の感受性のあまりない人間と思っていました。
……少し略……
ですが、お話を伺っているうちに、「言葉(国語力)と感性・情緒は、相反するものではなくて、相乗的に豊かになってくるもの」と、思うようになりました。
星野富弘さんの詩を読み、また詩(言葉)を聞いて、こんなにまで感動を与えてくれるということが、何よりの証拠のように思えます。詩の言葉(国語)によって涙が出る自分を、誇らしく思える様になりました。
 智隆にも、国語力と共に、豊かな感性を持った、心の広い大きな大人になってもらいたいと思いました。そういう面から考えても、安松幼稚園に入園させて良かった!!
幸せな気分になりました。
 心にしみるお話を、有り難うございました。(以上)

発表会や授業参観後に、上記のような、日本の歴史・文化に関することを、お話しでき、保護者と一緒に考える事が出来る。私にとっても、とても嬉しいことです。
有り難うございます。

 大雑把に言えば、国力は ●軍事力 ●経済力 ●文化力 の総合体だと思います。
1800年代、ジャポニズム(日本流)は、フランスやイギリスなどヨーロッパに於いて、単なる一時的な流行に終わらず、画家や作家達に絶大な影響を与えました。
マネ、ドガ、モネ、ゴッホといった画家、版画家のブラックモン、彫刻家ロダン、作家のゴンクール兄弟など、多くの人々が美しく色あざやかな浮世絵に強い関心を寄せ、影響を受けました。

 そして現在も日本は、食文化をはじめとする様々な文化、新しいアイディアによる発明品など、多数を発信する力を持っています。
 現在の混迷なる世界は、もちろん経済の安定も必要ですが、国境なき文化の交流による相互理解を打ち立てるほか、解決法はないでありましょう。
日本も、最低限の軍備を整えつつも、文化力を発揮し、新たなる世界のリーダーとしての行動を起こさなくてはなりません。その為にも、政治家は、気概を持ち、2000年続いた母国語の意味を噛みしめ日本文化を再認識し、それに似合った教育体制を構築して欲しいものだと熱望します。

 色々な想いから記したいことが多々あり、まとまりのないエッセイになってしまいました。お詫びすると共に、最後まで読んで頂いた方に、感謝申し上げます。