理事長エッセイ

先生の熱意と指導力が安松幼稚園の誇り

平成27年8月
理事長 安井俊明
教育とは ひとつの型を次の世代に伝えることであり
強制から始まる
――創造的な仕事は型の修得・知識の蓄積があってこそ
初めて可能になる――

6月末のお楽しみ音楽会は

  • 子供の本気さと高い歌唱力
  • そこまで指導された先生方の姿
  • 子供,先生共に、かけられた負荷を乗り越えた後の達成感や喜び

等々を目の当たりにして、参観者全員が感動の渦に巻き込まれました。
 その後の講評の中で、元大阪教育大学附属天王寺の音楽科の諸石先生が話されたことは、安松幼稚園の教育の根幹に関わっていますので、私の考えも含めてまとめてみました。

【Ⅰ】芸術は 全て 型の模倣から入る
 年少さんは、入園僅か2ヶ月あまりで、どのようにすればあのレベルまで歌えるようになるのでしょうか。(写真館・ビデオ館→お楽しみ音楽会→平成27年度をご覧下さい)
それは、年少さんが徹底的に先生の真似をするから。子供は、物まねの天才です。先生が徹底的に自分の真似をさせ、それを30人であわせるようにもっていく。




子供は真似をする天才です。徹底して真似をさせます。それも4月からの集中力が養われていればこそ!!


諸石先生によれば、「芸術は全て模倣から入る。型の模倣から入る。型の模倣をきちっとせずに、自由に勝手にやった人は伸びない。これは、教育においても全く同じ。
私は、幼い頃の教育活動とは、型(基本)の模倣・知識の蓄積の時期であると考えています。
 最後に諸石先生は、「安松の子供達は、2~3年をかけて、歌唱の分野や挨拶などの人間関係においても、基本となる型の真似をし、知識の蓄積を行っている。将来的には創造的な仕事が出来るようになろう。またそういう単純な作業を子供達が徹底できるのは、安松のような情熱的な先生がそれを支えているからである」と、締めくくられました。

【Ⅱ】創造的な仕事は、型(基本)の修得・知識の蓄積なしに出来るはずがない
 日本で初めてノーベル賞を受賞された湯川秀樹博士は、著書“創造的人間”の中で「創造力は記憶力に比例する」と述べられ、知識を頭に詰め込むことを単純に否定する論には警戒が必要であるとし、記憶力と創造力を対立させることの誤りを指摘されました。そして「記憶というものは極めて重要であって、創造的な仕事は、相当量の系統だった知識の蓄積(記憶)があってこそ初めて可能なのです。」と述べられています。
 創造力について、脳科学者茂木健一郎氏は、文藝春秋の特集“脳力革命”の中で、「中高年の知識や経験こそ創造力の源だ」と表現されています。
 私も、自分の経験を通して、「創造力は無から生まれてくるものではない」と、強く感じています。

【Ⅲ】教育とは 一つの型を次の世代に伝えることであり 強制から始まる
 安松幼稚園では、創立時より「教育とは、ひとつの型を次の世代に伝えること」と考え、型を伝える為には「教育は強制から始まる」と主張し実践してきましたが、それは上記【Ⅰ】【Ⅱ】の考えと深く関わっています。(型というのは、そのかなりの部分とくに入門期においては、かかわっている物事の基本と言い換えることも可能です。)
 昨今の教育界には、自由・個性・支援という言葉が溢れています。
そして、個性の尊重は善であり、子供への強制は悪であると考える人が多く存在します。
一つ例を挙げてみましょう。 ・音楽会の選曲では、個性の尊重とばかりに、子供達に曲を自由に選ばせる園が少なからずあります。子供は自分の持っている知識の中でしか選べませんから、どうしても漫画的に流行っているものとなります。そしてこういうやり方を支援と呼び、望ましい教育のあり方と勘違いしている多くの教師がいるのです。
 私は、一国の文化はその国の国語に帰着すると考えています。それ故、安松幼稚園での選曲は、唱歌・童謡を通じて、時代を超えて残すべき日本の文化を子供達に伝えたいという想いから、格調高い綺麗な日本語(国語)で書かれた唱歌・童謡を選びます。これは、知識の蓄積のある先生にしか出来ないことで、先生が選び強制的に子供に与え、歌の指導においては徹底的に先生の真似をさせます。そしてこれこそが、本当の個性・創造的な仕事に直結する教育と考えています。

【Ⅳ】数点の記事の紹介
●新聞の投書から

「個性」重視が教育をダメに

男性 30歳

 

先日の投書の「書道教育は型にはめず個性的に」に反論します。
 書道だけでなく、今日の教育改革に関して「個性を伸ばす」ことの重要性があらゆるところで説かれています。人にはそれぞれ「個性」があり、それをのばすことこそが、正しい教育のあり方というわけです。
 しかし、この個性重視の教育こそが、今の子供達にゆがんだ人格形成をもたらしたと言わざるをえません。茶髪でたばこをふかし、だらしない生活を送ることが個性ということになりかねません。
 物事を学ぶには必ず正しいやり方があり、そのやり方を踏襲し繰り返すことが、その道で大成する唯一のあり方なのです。
 書道を例にとれば、例えばここに小さくゆがんだ字しか書けない生徒がいたとします。指導する側が、これを「個性」として認めてしまうことは、その生徒の長所を伸ばしたというよりも指導を放棄し安易に「妥協」したにすぎません。
 人間は元来、個性的なものです。どんなに画一的に教育されても、それぞれの個性を消し去ることはできません。いったん「個性」を否定し、本来の教育のあり方を捉え直すことこそ、将来見事な個性が開花することにつながるのです。


●曾野綾子さんのエッセイを紹介します。

教育は強制から始まる(産経新聞より一部抜粋) 2000.10.29

曾野綾子

 

教育は「幼い時」と「新しく或ることを始める時」には、往々にして強制の形をとるのである。それは長じた時と別だ。
 まず小学校へ上がる。これも就学の意味を理解して自発的に学校へ行く子など例外だから強制である。
 家元と名のつくような家の子供たちは、それこそ有無を言わさぬ強制から修行が始まる。
 しつけというのもすべて強制だ。子供はお辞儀の仕方から時候の挨拶まで、親に言われたことを意味もわからずに渋々その通りにする。左側通行、電車に乗る時に切符を買うこと、食事の前に手を洗うこと、……自発的に納得したものでもないが、仕方なく従うのである。
 そのうちに、お辞儀が最も穏やかで簡潔な人間関係の基本だと理解し、日本では左側通行を守らねばひどい交通事故が起きることがわかる。雑菌に多い土地に行けば手を洗う方が病気に掛からないですむ確率が高くなることを理解し、……
 すべての教育は、必ず強制から始まる。イヌを、イヌという言葉で覚えさせるのだって立派な強制だろう。私がイヌをワニと言いたいと主張したら、意思の伝達は損なわれ学問の世界も混乱する。
 しかし異常事態でない限り、強制をいつまでも続ける必要はない。
 「幼い時」と「新しく或ることを始める時」強制の形で始まったことでも、やがて自我が選択して、納得して継続するか、拒否して止めるかに至る。
 私はピアノを習わせられたがどうしても好きになれなくて中断し、小学校一年生から日曜毎に強制的に書かされた作文の練習は好みに合うようになって作家になった。……


●狂言師の野村萬斎さんと、現代歌人の俵万智さんの対談です

産 経 抄

2000.1.4

仕事柄、正月でも分厚い新聞各紙を読まなければならないから、これが大変だった。そんななかで(小紙を除けば)興味深かったのは、日経・元日の俵万智さんと野村萬斎さんの新春対談である ▼俵さんは五七五七七に“チョコレート語”などの新風を吹き込んだ現代歌人、野村さんもユニークな感覚の能の舞台で若い観客を集めている狂言師。ともに千年紀(ミレニアム)以上の歴史と伝統をもつ日本の文化と芸能の世界に生きている ▼目をひかれたのは、その二人が口をそろえたように「型」というものの重要さを強調していることだった。俵「意外に思う方も多いですが、私は五七五七七は厳密に守っています。それが言葉に力を与えてくれるのです。よく五七五七七を壊したいのですかといわれるけれど…」 ▼野村「逆ですよね。制約があるからやりがいが出てくる。それがなかったらかえって…。子供の時は鋳型に入れられるようだったが、骨ができて自分の肉がついてくると面白くなってきます。それが十七、八歳の時でした。」 ▼古典には表現の型というものがあり、人びとの日々の営みのなかで培われた伝統として残ってきた。それが千年の蓄積の強みとなり、表現となって、現代感覚を生かすことができる。ただし言葉の変化のスピードは速く、二十一世紀はそれにますます拍車がかかるだろうと語り合っていた ▼「型」がなければ自由になれず、「型」があるから自由になれる、創造が生まれるという逆説の示唆が重くひびいてくる。たとえば職人や芸人の世界では“腰”が技芸の基本といわれていた。そういう「型」が失われているのが現代の社会の悲しい特徴だろう。


●安松幼稚園での5年前の教育講演会で、上記の趣旨である「教育とは 一つの型を次の世代に伝えることであり 強制から始まる」 について話したところ、当時の保護者であった松村悠子さんから下記の趣旨のお手紙を頂きました。

型,強制について、ご自分の体験を綴られています。

松村悠子

2010.7

 

私事ですが、幼少の頃より箏(琴)を続けています。
ですが、若い頃に約数年間、レッスンを受けずに自己流で練習しプロになったつもりの時期がありました。しかし基本を未習得であった為、伸び悩み、いわゆる『型』の大切さに気付き、尊敬する先生の門下に入りました。
 自己流スタイルも一時的に楽しいものでしたが、「型」を伴わない私は『女王様』状態と言えます。そのスタイルはレッスンを再開して、根底から覆されてしまったのです。
それから10年、遅まきながら型を習得しつつあり、本当の音を楽しめるようになりました。
このことから、『型』の必要性を個人的に感じています。  ……少し略……
安井先生の話をお聞きし、今まで私が受けた教育の強制の少なさを嘆きたくもなりました。
以下 略

詳しくは H.P.のお母さんからのお便り H22.6~7教育そのものについて考える「教育は型・基本が大切」をご覧下さい。

【Ⅴ】幼児教育の眼目
 国民教育の師父と仰がれた森真三先生は、「教育の眼目は、相手の魂に火をつけてその全人格を導くことである」と説き、「教育に携わる者は、自分の全信念を傾けて教えなければならない」と、戒められました。
 安松幼稚園では、日本の昔からの文化や伝統、美しい情緒などを、次の世代に伝え、先生が正しいと信じることを、愚直に情熱を持って子供達に熱く語って聴かせることこそ、幼児教育の眼目と考えています。
先生や親が示すそのような言葉や態度は、必ずや子供達の魂に火をつけ、型(基本)を身に付けた子供達の今後の人生において、機に応じて蘇ってくることでしょう。